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稲荷新地の歴史と記憶〔5970〕2019/08/20

2019年8月20日(火)降ったり止んだり

昨日も走って帰ったので、今朝も自転車出勤。雨は降ったり止んだり。丁度、その雨の隙間を縫って出勤できました。でも、結構汗、かいてます。

 

写真は今朝の稲荷新地。地図でいうと、ここ。土佐稲荷神社さんの少し東で、新しい津波対策の巨大堤防ができてるところ。向こうに五台山が見えてます。

 

昨日、稲荷新地の石積みのこと、書きました。あの通りは、この海岸通りの一つ北側。ここが岸壁として栄え、その北側に歓楽街ができていった明治初年。

以前にも書いたと思うけど、今一度おさらい。

慶応2年というから、1866年。大政奉還の1年前。幕末も幕末、世の中が大きく変わろうとしてた、まさにそんな時、池村の土居慶蔵さんという人物が、藩に対して、この場所に宅地を造成することを建議。で、明治元年に藩営(まだ、ギリギリ土佐藩だった)で造成、翌明治2年に東西440間余りの新しい土地が完成して、土佐稲荷神社にちなんで「稲荷新地」と呼ばれるようになりました。

これ、角川書店の「高知県地名大辞典」に書いてるの、そのまま。

 

つまり。

藩政期、ここには、常磐町から伸びる堤があっただけ、と思われます。その堤を整備し、東側にも堤を構築して海水を遮断、堤に囲まれた宅地を造成した、ということだと思います。

土居さんにどんな思いがあったのか知らんけど、時代は急展開して幕藩体制は崩壊、土佐と他国の間を自由に往来でき、武家社会に制約されない自由な街づくりが可能になって、新しい宅地の前は高知の表玄関となり、宅地には遊郭、料亭、芝居小屋が並んで高知一の歓楽街となったのでありました。

たぶん、土居さんの思いとは全然違う方向に進んだと思うけど。

 

明治大正昭和初期を通じて、歓楽街であった稲荷新地。この左手の明るいところに「新地」という停留所ができ、電車通りから「新地線」という電車の新線が引かれたのは、明治44年。

その停留所は、ここの波止場で船に乗り降りする乗客や、稲荷新地で遊ぶ客を運んで栄えたと言います。今は昔。

 

こっから先は、僕の個人的記憶なので、間違ってるかも知れません。

 

今、立ってるのは、ここ。津波対策巨大堤防ができてるけど、その外側に、以前の堤防。でも、あの堤防ができたのは、昭和45年の台風10号以降のこと。それ以前は、あんな堤防、なかった訳です。1960年代の航空写真を見ると、ここがそのまま岸壁であったこと、よくわかる

 

僕が小さい頃。たぶん、まだ小学校に上がってないから、昭和40年頃。

母に連れられて、ここへやって来ました。岸壁には、当時の最新鋭家電製品を満載した、船。家電の見本市みたいな船が、全国を廻ってたんでしょうかね。三種の神器と言われたテレビ、冷蔵庫、洗濯機が満載で、凄まじい活気だったような記憶。

 

ここを通るたび、あの風景を思い出します。高度成長真っ盛りの、あの時代。あの風景。幻のような、記憶。

その頃は歓楽街はなくなってたけど、岸壁としての機能は、まだ残ってた訳だ。

 

写真に見える古い堤防には、階段がついてて、堤防の向こうに停泊する船への乗り降りができるようになってます。

新しい堤防には、そんな階段、ない。この新しい堤防の隙間が閉じられ、完成したら、船の係留地としての機能も完全に終わるんだろうか。

 

堤、稲荷新地、波止場、歓楽街、電車の終点、岸壁、堤防、巨大堤防。

ここにあるのは、そんな歴史。


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