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国の中心〔5715〕2018/12/08

2018年12月8日(土)晴れ

北風が寒くなってきた。やっと、冬になってきました。季節は季節らしく、が一番。何をしてもね。

今朝は、国分川界隈から国分寺、ながおか温泉と走ってきました。年の瀬を迎え、体調を整えちょかんといけません。で、ついでに立ち寄ったのが、ここ。国分寺。

今、幾度かに分けて、地元の地権者さんとかの協力をいただきながら国分寺域の発掘調査が行われてます。で、今年の発掘の成果を、今朝、現地説明会。北風が冷たいのに、たくさんの善男善女が集まってました。ご苦労様です。

 

左手の森が国分寺さん。現在の金堂は長宗我部元親さんによって建てられたもので、それ以前の金堂も、その場所に建っていたと言います。聖武天皇の命により全国に建てられた国分寺、国分尼寺。8世紀の中頃。土佐の国分寺は、今の国分寺さんの場所に建てられた。発掘調査は、現在の寺域よりもかなり広かった往時の寺域を調べ、どんな営みが行われていたのか明らかにしていくもの。

 

紀貫之が土佐の国司となって、ここの東の国庁に住んでたのが10世紀。その頃の土器とかも今回見つかっているし、国分寺を建設していた時代の食器の破片も。中世のものも多く見つかって、かなりの長い期間、ここにたくさんの人が住んで栄えていたこと、わかります。

で、今回も、かなり多くの、古墳時代の竪穴式住居跡が見つかっており、比江から国分にかけて、かなり大規模な竪穴式住居の集落があったことがわかりました。そう。弥生時代の中心は高知空港界隈の田村遺跡で、古墳時代になると、賑わいの中心は、比江から国分に移ってきていた訳だ。どちらも、大きな川の自然堤防の上。微高地。

 

たぶん、古墳時代、土佐では有数の人口密集地域だったんだろう。そこに国府ができ、国分寺が作られたのは、そういった古墳時代からの文脈の延長線上にある、という訳だ。歴史の必然。長宗我部地検帳でこの界隈のホノギ名を見ると、市場、風呂ノ前、市頭、堂ノ前、大門など、門前町として栄えた痕跡がたくさん。国分寺の南側に、かつては蛇行していた国分川に沿うように門前町の賑わいが形成された。都市。

 

中世になると、土佐の中心は再び空港界隈、田村へと移ってゆく。

その理由を考えてみよう。

国庁が置かれたここの、最大の弱点は、水運だろう。太平洋に、遠い。船が物資輸送の主役であった時代、太平洋から遠いのは、弱点。だから、大内氏に対抗して瀬戸内海を通らない貿易を目指していた土佐守護の細川さんは、物部川河口で太平洋に直結する田村に、本拠を置いたんだと妄想してみよう。なんか、辻褄が合う気がする。しますよね?

 

写真右端、犬を連れた女性の向こうに見える山が岡豊山。ご存知岡豊城があった、長宗我部の本拠。そこと、ここ国分寺の間には、田んぼを突っ切る遍路道があります。今朝はそこを走ってきました。今は田んぼ道だけど、そこのホノギ名は、新市。国分寺の南に古市があり、新市が、その西にできあがっていった。岡豊の城下町として。

長宗我部が土佐の覇者になると、再び土佐の中心はこの界隈に戻ってくる。国分川を通じて太平洋とつながり、四国の覇者にもなった、元親くん。

 

でも、やはり、グローバル化時代の中では、太平洋に近くないと、どうしようもない。そんな理由で、元親は本拠を大高坂山東の平野に移す決断をしたんだと思う。岡豊の新市町をそっくりそのまま移すことまでして。

 

時代の流れ。時代の要請。そんな外部環境の変化の中で、国の中心は変わってゆく。

田村。比江、国分。田村。岡豊。大高坂山。浦戸。大高坂山。

環境変化の中、中心が変化していくのも、必然。


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