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魚河岸と市場〔5603〕2018/08/18

2018年8月18日(土)晴れ

秋みたいな朝。涼しい風。油断してると風邪ひきます。でも、本当に過ごしやすい朝になりました。今日は土曜日。出勤途中、弘化台の市場に寄って、撮影してみました。朝5時過ぎの弘化台。東京だと築地。朝から威勢の良い声が飛び交う市場の風景。

 

築地の源流は日本橋の魚河岸。関東大震災の後、超モダンな施設が築地につくられ、独特の文化、経済を醸し出しながら現在に至ってます。日本橋に魚河岸ができる際に重要な役割を果たしたのが、家康が、大阪湾に面した佃村から連れてきた森一族を中心とする漁師たち。彼らは、江戸湾に浮かぶ小島を拠点として白魚漁を開始し、幕府と緊密な関係を保ちながら、力をつけていく。そして日本橋に魚河岸ができると、その中心的役割を担うようになりました。

問屋、仲買という日本的な仕組みは、そこで入念に形成されていったとされますね。海民=魚河岸=江戸っ子という文化は、元を正せば佃村の漁師に行きつくのかも知れません。

 

で、高知の城下ではどうだったのか。

山内一豊が土佐へ入国し、大高坂山の下に城下町を建設する。その、爆発的に増える人口を養う食料を確保するべく、都市計画は進められる。

雑喉場。ざこば。かるぽーとから南へ行くと、鏡川に雑喉場橋が架かるけど、藩政期初期につくられた高知の魚河岸が、雑喉場でございました。

そこで朝夕の二回。魚介類の市が開かれた。それに参加する魚問屋は特権的に固定され、それにたくさんの仲買人が集まってきて、複雑にして専門的な鮮魚の取引を瞬時に行い、新鮮な魚介類が城下に流通していくシステム。これは、間にたくさんの業者が入る非効率な仕組みに見えて、実は素晴らしく合理的なシステムだったと思いますね。いや、ホント。

 

城下では、雑喉場納屋堀以外での魚市場開設は、禁止。

特権を与えられた商人は、藩主への貢物、上質品を安価に納入することも義務付けられたのは言うまでもありません。江戸時代の、特権付与と公共事業の関係は、概ねそんな感じだから。

 

雑喉場の魚河岸が、明治になって、「雑喉場商社」と「諸魚仲買組合」による公設の市場として機能していくようになり、昭和5年、その市場が母体となって高知市中央卸売市場ができたのでありました。中央卸売市場としては全国で2番目に早いのだそう。築地よりもね。そして、昭和42年、ここ弘化台へと移転。

しかし、流通機構の変化などによって取扱量が減少し、水産部門は、平成26年に「中央卸売市場」から「公設地方卸売市場」へと降格してしまいました。

 

歴史にifはない。ないけど、昭和42年に、九反田からここ弘化台へと中央卸売市場を移設する計画の際、九反田の東に隣接する中の島を中央卸売市場にする、という選択肢はなかったんだろうか。設営する場所は、あったと思う。もちろん道路混雑解消策は必要だったでしょうが。

もし、中の島が中央卸売市場になっていたら、それまでの九反田の、雑喉場からの文脈の延長線上にあった市場文化が、今も引き継がれていたのかも知れません。市民は、もっと、市場に親しんでいたかも知れない、などと妄想が暴走してしまいます。今となっては無理な、中の島中央卸売市場案。

 

ところで築地。昭和の初めに、昭和モダン建築の傑作とも言える、現在の、扇型の建物がつくられた。鉄道を引き込むための扇型ではあったけど、そこで問屋が荷受し、扇の内側へ向かって仲卸が荷捌きをし、そして外へと運んでいくという導線は、一見、複雑怪奇に見える築地のカオスを、見事に機能的にしているんだと言いますね。日本的生魚流通は、ある意味、合理的極まりないのだそうです。

 

豊洲移転で、市場関係者が危惧しているのが、問屋機能、仲卸機能などの分断。機能別に建てられた建物が道路を挟んで分断されており、簡易に行き来ができない。導線も、非常に長くて機能的でない、などという問題。築地のように、キチンと分けられていながら境界が曖昧で、魚介の流れていく方向が合理的な仕組みに慣れた人たちは、豊洲の市場に不安いっぱいという話も聞きますね。

 

ともあれ市場。市場には、専門的知識と合理的仕組みと、そして勢いと元気が存在し、僕らの文化を支えている。


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