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八百屋町、国沢城の痕跡〔5137〕2017/05/09

2017年5月9日(火)曇ってます

昨日、ひまわり文庫、4月と5月の新刊をご紹介しました。ひまわり文庫の本は、誰にでも貸し出しできるようになってます。皆様も、どうぞ。
で。
本を貸し出すと言えば、高知の城下で、いや、土佐の国で最初の貸本屋は、寛政年間(1789年〜1801年)に始まってます。江戸時代も、いよいよ後半に入ろうか、という時期だ。1789年と言えばフランス革命ではないか。そんな、時代。

ここは堺町。今朝、4時前。出勤途中に撮影しました。藩政期には八百屋町と呼ばれていた一角。ここに住んでいた吉田屋亀助という人物が、桜井の揉み抜き井戸を整備した功績でも有名な町奉行、馬詰親音から資金を借りて、貸本屋を始めたという。土佐で最初の貸本屋。
こうやって見てみると、馬詰親音、すごい。すごい人物であったことが、よくわかる。城下の飲料水事情を好転させたり、貸本屋に出資したり。

元々、ここは浦戸町の一部であったのが、野菜や乾物を売る店が並んだことから八百屋町。この写真は、はりまや橋交差点から南へ一筋下り、西へ一筋入った交差点から西向いて撮影したもの。堺町から要法寺町、そして堀詰。

この界隈、戦国の頃まで、小高い丘があったという。
高知城の山から東側は、鏡川(潮江川)と江ノ口川(大川)の挟まれた洲。古代は海であったものが、徐々に土砂が堆積し、埋め立ても進んで洲になっていきました。その洲に、小高い丘。
たぶん、鏡川の蛇行が土砂を堆積させてできた高砂。高砂の山が、丘になっていた。
その丘の上を本拠とし、戦国期に活躍したのが国沢氏。長宗我部や本山などの土佐国戦国七雄に次ぐ「四大封」の一人に数えられた国沢氏。元親の攻勢を前にして長宗我部氏に帰順した国沢氏は、堺町界隈にあった丘を本拠としてました。

そこで、地理院地図。
江戸時代を通じで、大きな土木工事、埋め立てなどが行われたので、戦国期の地形を肉眼で確認することはできません。また、海抜標高も、埋め立てなどによって変わってきているでしょう。
しかし。
地理院地図で高知の城下を見るとこんな感じ。下の黒い矢印みたいなのを押すと、その場所の緯度経度などの情報が見れる。そして、標高も、見れます。

高知城の山から東は、追手筋を中心に、概ね1.7m〜2mくらいの標高になってます。今は電車通りとかが盛り土され、少し高くはなってますが。で、新堀川から東へいくと標高は下がり、0m地帯になってゆく。
高知城から東の、鏡川と江ノ口川の間を標高を細かく調べていくと、川沿いの土手部分は別にして、この交差点の南西辺りが一番標高が高いんですね。約2.5m。こんな標高の場所は、他にはない。

文献を見てみると、この堺町界隈に高砂の丘があり、そこに国沢氏の本拠があったことになる。
現在の標高を見てみると、この交差点の南西界隈が一番高い微高地。もちろん、城下町建設に際して丘は取り崩され、平らかに均されたでしょうが、ひょっとしたら元々の丘の痕跡が、この標高2.5mになっているのではないか。そんな妄想が朝っぱらから頭の中を駆け巡る駆け巡る。そうだとしたら、この地理院地図の標高こそが、国沢城の痕跡であることになるのだが。

土佐で国沢と言えば、明治初期に日本に西洋画を持ち込んだ洋画家、国沢新九郎ですが、その話はまた今度。さあ。今から早朝の工場へ!


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