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中水道湯〔4585〕2015/11/04

2015年11月4日(水)晴れ!

良いお天気。
昨日、高知市内に現存する7軒の銭湯の一つ、愛宕温泉の探検レポートをご紹介しました。実は、つい近年まで、高知市内にはもっとたくさんの銭湯が営業しておりました。長く休業し、2013年3月に廃業された、塩屋崎町の「角湯」と、中水道の「中水道湯」。ついこないだではないか。
百石町の百石湯も、2012年に廃業、とあります。

そうそう。7軒営業、と書きましたが、そのうち宝永町の「司湯」さんは休業中なので、実際に営業中なのは6軒。昨日、1軒目に入浴してきましたので、残るは5軒。昼間っから銭湯へ行く訳にも参らんので、制覇できるのはいつになるやら。とは言え、ゆっくりしよったら、もっと減ってしまうかもしれないので悠長にはしちょれません。

今日ご紹介するのは、「中水道湯」。愛宕の旧踏切から西へ線路沿いに行ったところにあります。いや、ありました。
一昨年、2013年3月廃業で、休業したのは2012年にかありません。店構えは、あたかも現在も営業しているかの様。「中水道湯」という看板が「中水道場」に見えてしまうではありませんか。柔道か何かの道場のように。
建物の向こうに、JR土讃線の高架が見えます。つまり、高架ができるまでは、線路沿いに建つ銭湯であった訳だ。中水道湯。

現存する銭湯の所在地を見てみると、小津町、桜馬場、愛宕、新本町。それにこの中水道を入れると、お城の北から高知駅の北側を通って新本町へ、という線がなぞれます。この界隈、アパートなどが多いことが銭湯の配置でよくわかる。
その他の銭湯は、潮新町、百石町。2012年に廃業した百石湯は百石町で、2013年廃業の「角湯」は塩屋崎。潮江、百石町界隈にも、お風呂がないアパートは多いと見えます。なるほど。

中水道という場所は、JRの線路の北側、中の橋通りと小津神社の間で、北限は愛宕中学校の南の通り。通常、「中水道」といえば、小津神社からまっすぐ東へ伸びる通りのことを言います。
その「中水道」という町名の由来は、今の所、謎。知りません。
藩政期は江ノ口村。

江ノ口川は大川と呼ばれ、藩政期初期には、潮江川、つまり鏡川よりも大きい川であったとも言います。その北岸には武家屋敷が並ぶことになったのはご承知の通り。
武家屋敷の北は、たぶん町人地。そして田んぼ。
田んぼの北には久万川。久万川と大川の間で、その中間辺りに用水があったので、そこを「中水道」と呼んだ。などというストーリーが頭に思い浮かびますが、真相はわかりません。

銭湯。
江戸時代は、湯屋とか風呂屋とか言われた施設が、町のあちこちにありました。火災予防の観点から、通常の庶民の家にはお風呂は無い。
そこで、庶民は、風呂屋へ行くか、行水。
この行水という風習は、今考えるよりもずっとずっと気軽にいつでもどこでも行われておったにかありません。

幕末、そして明治が始まった頃、日本へやって来た外国人が、一番驚いたのは、日本人の「裸」にたいする羞恥心の無さ。
人力車夫や馬の別当などは、下帯だけの、ほとんど全裸に近い姿で往来する。で、お風呂は混浴で、別に恥ずかしがる訳でもなく、裸で談笑する男女。
街中を馬で通りかかったら、外国人だ〜、という珍しさから、行水中にもかかわらずそのまんま裸で往来に飛び出し、外国人の自分を見にきた若い女性に、本当に驚いたという日記の記述があります。

行水も、普通に庭のような場所でやるので、周囲からは丸見え。風呂屋は混浴。
この国はどうなっているのだろう?と、外人が思った不思議の国。

明治になり、そんな風習風俗も、あっという間に廃れていった。しかし、観光地などで混浴の露天風呂は残り、湯屋は銭湯として、残ってきました。
銭湯の、あの、男湯と女湯の間の番台に無防備さや、昨日の愛宕温泉のような開放的なつくりは、考えようによっちゃあ、江戸時代からの日本の風俗を今に伝えるものかも知れません。


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