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源希義くん、鞍掛けの岩と源平合戦の記憶〔3847〕2013/10/27

源希義くん、鞍掛けの岩と源平合戦の記憶

2013年10月27日(日)良いお天気!

ねんりんピックは順調に進みゆうにかありません。天気が良くなってなにより。絶好のランニング日和ですが、今日は色々と用事があって走れんのであります。午前中に行っちょった会社の帰り。ここを撮影してきました。こないだ、FBでもご紹介した、土佐の源平合戦の痕跡。期間限定。

ここは南国市立鳶ヶ池中学校の正門の前。道路を挟んで西側。このもうちょっと北で、今、曙街道という広い道路の工事をやりよります。山田と高知をまっすぐつなぐ、広い道路。その工事に伴い、曙街道へのアクセスの周辺道路も工事が行われよります。ここの工事もそのひとつ。
道路幅が広がりよりました。今までの用水路が西へ移動し、道路が拡張。その拡張工事によって、ビックリするものが露出しちゅうがですね。今だけ。
この岩。
その由緒は、岩がちょっとだけ路上に露出したところに立てたられちゅう案内板に書いちょります。

以前にも書いたことありますが、今一度、おさらいしましょう。
ことの始まりは平治の乱。平安時代後期、台頭して来た武士階級が貴族を巻き込んだ争い。平治元年ですき、1160年。これ以後、平家一門が隆盛を極め、破れた源義朝さんは殺されて首は獄門。そのとき。
長男の頼朝くん、13歳は、伊豆へ配流。これは有名。その弟で、3歳の希義ちゃんも、配流。その場所は、土佐の国の介良。そして、平家の天下の中、介良の冠者と呼ばれながら成長したのが希義少年でした。

そして20年の歳月が。治承4年(1180年)、以仁王の令旨を発端とし、頼朝がいよいよ挙兵。源平合戦が始まったのでありました。が、その際、土佐に住む弟、希義くんも呼応した訳です。
さて。
土佐は、どちらかと言えば平家方の勢力が強い地域。で、簡単に挙兵もできんので、数少ない源氏方の、夜須七郎さんと合流を図ります。希義くんは介良を出立して北東へ。夜須七郎は、夜須を出て北西へ。

途中、希義くんは、現在の南国市篠原で喉が渇いたので、農夫に水を所望。柏の木の根元から湧き出る清水を、農夫が柏の葉っぱで掬うて飲ませてくれた、という伝説を残し、さらに東へ。やって来たのがここ、年越山。
写真右手の山が年越山。山の北麓に祈年(としごい)神社さんがあって、年越山。祈年神社は創建706年と言いますき、希義くんが通りかかったときにはもう年越山やったがでしょう。
そしてここで馬を停め、鞍を岩の上に乗せたと言います。
この、道路拡張工事によって出現したこの岩。たぶん、この岩が、その岩。道路によって隠されるまで「鞍掛けの岩」と呼ばれよった岩。

源希義くん一行は、ここで平家方の軍勢に追い付かれ、討たれてしもうたのは、ご承知の通り。結局、野市まで来ちょった夜須七郎さんとは合流できんかったのでありました。

さて。今日、体感してきたがですが、この北側、鳶ヶ池中学校の北側は、今も遍路道。野市の大日寺から国分の国分寺への遍路道。物部川を戸板島橋で渡って、田んぼの中の道をずうっと西進してくると、この北側へやって来て右折。北進して、長岡のへんろ石へと出る訳です。そして北進、国分川を渡り、左折したら国分寺。
平安時代、国庁があったのもその界隈。つまり、今書いたルートが、古代から、東西の幹線路やったがでしょう。
野市からその道をやってくる夜須七郎軍と合流するつもりで、ここまでやって来たことが、よくわかりました。
以前は、何故、夜須軍と合流するのにこんな北までやって来たのか、納得できんかったがですが、遍路道をたどってみて、理解できます。

この、工事で露出した岩は、また、近々、工事によって埋め戻されてしまうでしょう。しかし、道路の下に、こうやって昔の姿で残されていくようです。
土佐にもあった、この源平合戦の痕跡は、それが人々の記憶に残るかぎり、たとえそれが地中であっても、伝えられていきます。


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